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世界史の中の日本~函館・新潟・長崎などの港町とロシアを中心に~

2018年11月26日 月曜日 研究
人文社会・教育科学系(教育学部)麓 慎一 教授

麓 慎一 教授

人文社会科学系(教育学部)

Profile

博士(文学)。
19世紀後半の日本を中心とした国際関係について研究する

ロシア研究を通して考えることが日本史の中心的な課題を解明することに繋がる

国内資料だけではなく、頻繁にロシアを訪れ現地の文献を紐解きながら19世紀後半から20世紀初頭の日本史を説く麓教授。

 「江戸時代後半、ロシア使節が何度か日本を訪れます。この時点では日本に侵攻する意識は薄く、アラスカ経営のための中継地として開港を要請していたと考えられます。ところが日本では教科書レベルで“ロシアがサハリンや北海道を奪いに来た” と書かれていることが多い。その理解は間違っていると私は考えています」
明治以降、ロシアとの対立が深まる中でそのような歴史観が定着したのではというのが麓教授の考えだ。ロシアの極東の拠点であったウラジオストク対岸の新潟も研究の対象。新潟は福沢諭吉が「横浜よりも重要」と語ったほどの要港。資産家も多かったようだ。
「1865年にロシアはサハリンに派兵します。この背景には松川弁之助という新潟・三条の大庄屋がアイヌの人たちを漁場で働かせて、漁場を北方に広げてきたことへの反撃という記録がロシア側に残っています。新潟人がロシアが侵攻を企てるきっかけになったというのがとても興味深い」
東シベリア総督のムラヴィヨフ像。1860年、彼が沿海州地域を中国から奪ったことで、環日本海の状況が一変した
東シベリア総督のムラヴィヨフ像。1860年、彼が沿海州地域を中国から奪ったことで、環日本海の状況が一変した

そして麓教授が19世紀後半以降の世界史を決定付けた事件と考える1867年のアラスカ売却。アラスカはロシアからアメリカ領になった。クリミア戦争を経てロシアは遠方の植民地経営を断念。沿海州を中国から奪い、関心を環日本海に移す。以降、ロシアから日本が受けた影響は大きい。これは日本史だけをやっていたのでは辿り着かない麓教授ならではの視点だ。
「鎖国を続けていた江戸時代に、日本人には海防という発想がありませんでした。その意識が出てきたのはロシアがきっかけでした。海防には莫大な費用がかかり、それは幕府が弱体化していく要因のひとつになったのではないでしょうか。ロシア研究を通し日本を考えることが、結果的に日本史の中心的な課題を解明することに繋がると考えています」

ロシアの極東の拠点だったウラジオストクの街
ロシアの極東の拠点だったウラジオストクの街
向かって左がサンクト・ペテルブルグのロシア海軍文書館。 右はエルミタージュ美術館
向かって左がサンクト・ペテルブルグのロシア海軍文書館。右はエルミタージュ美術館

 

六花 第19号(2016.WINTER)掲載

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